これが本当の国宝

 法隆寺の玉虫厨子の台座には、「雪山求法の図」と「捨身飼虎の図」とが対になっている。
 捨身飼虎の図は、飢えて死にそうになっている虎の親子を放置できなく、他に何も食べさせるものがないので自らの体を投げ出して助けた菩薩の修行の姿を表している。自分の体も生命までも捧げて、人類のため社会のために奉仕することを諭している。
 比叡山の開祖・伝教大師最澄は「国宝とは何ものぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名付けて国宝となす。経寸十枚これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ国宝なり」(金銀財貨が国宝ではない。道を求める気持ちのある人が国宝である。社会の片隅で、たった二人か三人でもいいから、人から喜ばれ頼られる人は国宝である)とおっしゃった。
 スラム街や避難施設に入って食べるにこと欠く人々を助けていく、老人ホームを訪ねて寝たきり老人の世話をする、孤児や心身障害者などの手助けをする、そういうことに自分の時間を捧げる人は現代の地蔵菩薩といえる。
 社会のため、人類のためにどんな些細なことでもいいから奉仕していくならば、その実践の中で、きれいな心が備わり、人生の生き甲斐や喜びを味わうことができるはずである。

まずは身近なところから

 『少女ポリアンナ』の中にこんな一節がある。
ポリアンナが孤児のジミーの面倒を見てくれる人がいないかと、教会の婦人会の人たちに一生懸命に話をする。誰も黙り込んでしまうが、牧師夫人が毎年インドの子供たちに送っているお金の一部を、その子に廻してはどうかと提案をした。
すると活発に意見が出始め、この教会はインドに寄付をすることで有名だったので、今年から減らすのは言語道断ということになった。教会の名前が報告書のリストのトップに出ていれば、お金がどう使われようがかまわない。報告書の名声を保つために、自分たちの町にいる独りぼっちの少年を助けるよりも、インドへ金を送るほうを選んだのである。
 そして「あの人たちは遠いところにいる子供たちのことばかり考えていて、身近にいる困った子を救おうとしないのですもの。ジミーのほうを大切にすべきじゃないのかしら、報告書なんかよりもさ」とポリアンナに、作者は語らせる。
 私たちにも耳の痛い話だ。
 大地震や海外の避難民などのニュースに接すると、沢山の救援物資が集まるが、身近な不幸な人々には見向きもしない傾向がある。

とにかく「できることからはじめよう」

 ペルシャ湾は自然に恵まれて野生動物の楽園だったが、湾岸戦争の激しい爆撃で石油タンクから大量の石油が流れ出し、湾岸が200キロにわたって汚染されたことがある。多くの水鳥たちが油にまみれて動けなくなり、衰弱して死んでいった。まもなくサウジアラビア政府が「野生生物救護センター」を開設し、鳥の救助活動を開始した。
 そのニュースに接した獣医師の馬場国敏さんは、いてもたってもいられなくなってボランティアとして飛び込んでいった。やがて、懸命に働く日本人ドクターの噂が広がり、砂漠の鷹匠や遠い都市に住む王族が動物を診てもらいにやってくるようになった。
 馬場さんは言う。
「自分にできることをやっただけです。たまたま獣医だったから、動物の救出をやったのですが、誰でも自分の専門分野か、それに関連したことを、時々、ちょっとだけお手伝いすればいいのです。決して、負担のかかることではありません」
近頃では日本でもボランティアが盛んになってきたが、どちらかといえば自分がすることも受けれることも下手である。
自分のできる範囲で、小さな行為でいいから積み重ねる。それは言うほど簡単なことではないが、その影響は小さなものではない。

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